茶の湯には美しい言葉や、難しい漢字が沢山あり、
何か書こうにも漢字変換できない事ばかりで、
いつも四苦八苦です。
むかしむかし
茶道の稽古中に
薄茶いかがですか?
あっ、「先生もう一杯お願いします。」と言ったら
「一服」ですよ。
なんて指摘された事を思い出しました。
なぜお茶・抹茶・茶道は立てると言うのか?
なぜなぜお茶・抹茶・茶道は一服と言うのか?
煎茶は淹れるのに、
お茶・抹茶・茶道は点てる?
お茶・抹茶はなぜ?
一服二服と数えるのか?
あたり前の事なのに、茶道教室では
全く教えてもらえない。
そんな疑問をかる〜く調べてみても
動作や漢字の意味ばかりがネットで溢れていて?
そこは誰でも知ってるので、
そこじゃないな~と思い。
せっかく茶道をしていてもね~
お茶を点てる
お茶の一服は
頻繁に使うのに、どこにも書いてないので、
だったら自分で調べてみようと
かる〜く昔を尋ねてみたんですが…。
皆さんも、お茶・茶道を学ぶ以前の
こんな初歩的な事だからこそ
ぜひ先生にも訊ねてみてください!
唐・宋の時代のお茶・茶道を知る
やはり漢字やお茶が生まれた、
当時の唐の時代、古代中国から見ていきます。
遣唐使を派遣していた唐の時代には
すでに喫茶の風習が広がっており
『旧唐書』には茶は食物であり
『米や塩』と異ならないと記されています。
そんな中、お茶の世界では有名な茶書、
陸羽(りくう)さんの著した
「茶経」(ちゃきょう)により、
餅茶(へいちゃ/宋の時代には団茶)を
粉にして煮る方法、
後に「煎茶」といわれる方法、
それらの薬効について記されました。
次に宋の時代に下がると皇帝から一般人まで、
茶はすでに生活に不可欠なものとなっていたようです。
この時代には、蔡襄(さいじょう)さんが
1051年頃に「茶録」(ちゃろく)という書物を著し
団茶を粉にして、湯をかけて撹拌して飲むという
新しい方法を記しました。
「点茶(てんちゃ)」という方法です。
ん~バリスタのようです。
すでに宋の時代には喫茶が一般の人々まで広がり、
茶葉の品質が向上されてきた為と考えられています。
つまり、この頃のお茶は煎茶法、点茶法など
地域により飲み方も様々だったようで、
中には、現在のように
葉茶を淹れる散茶という飲み方もあり、
この散茶の一種として、葉茶を粉末にして湯を注ぐ、
現在の抹茶に近いようなものも飲まれていたようです。
また町に出れば茶坊・茶肆ちゃしと呼ばれる
茶店が多数あったようです。
ここで大変興味深い事は
なっ
なんと、
店では職業・身分関係なく、
同じ席で茶を飲んでいたとの事。
もはやスタバです。
なので、良く茶道の世界で強調され
語られているような、宋の修行僧達だけが
主に薬として茶を飲んでいた、
というイメージを持っていましたが、
ちょっと違いましたね。
宋で飲まれていたお茶に
皆さんはどのようなイメージを
お持ちだったでしょうか?
ただざっくり、茶道のお稽古で
お茶を渡来ものとして崇め、
日本の今の茶道のイメージを
固定してしまうのでなく、
やはり、日本に伝わる前の
宋の国のお茶のイメージは
とても大事だと私は思います。
お茶・茶道の「点茶」を知る
このようにお茶の産地である宋ではすでに、
茶の品質階級はあったにせよ
茶が「薬」という
当時の日本のような意識ではなく、
既に生活の一部だったんですね。
さすが産地は違います。
だからその頃は、
んー苦い「もう一杯!」
で良かったかもしれません。
ちなみに「点茶」という語には
口の細長い湯瓶で、一点に湯を注ぐ
という意味もあります。
また「点」という字には、
中国語で『火をつける』や『滴る』
などの意味もあったので、
お茶を点てる様子に近い感じもしました。
また面白いのは、
修行僧の方々の点呼の為に茶礼をするから
「点茶」であるという面白い説もありました。
修行中のお坊さんの慌てた姿が浮かびますね~
つまり、茶道の基本中の基本である
この私のかる~い疑問点の答えとしては、
お茶が「一服、二服」と薬のように呼ばれる
きっかけは、
・茶の薬効を説かれた、陸羽さん。
・お茶を「点てる」と言うのは、
点茶方法を説かれた、蔡襄さん。
と言うことになりました!
めでたし、めでたし。
んーこれだけじゃダメなんです。
やっぱり
やはり
日本にはどのように?
伝わったか?を見ていきたいと思います。
日本に伝わったお茶・茶道の歴史を学ぶ
今から945年前、1072年弟子七人とともに入宋した
大雲寺 阿闍梨の成尋(じょうじん)さんの
「参天台五台山記」には、各地の官営や寺院で
「点茶」のもてなしを受けたと記録されています。
その後、成尋さんは弟子のみを返して、
1081年にそのまま宋で入滅されています。
そして、その一世紀後1191年に二度目の帰朝をした、
栄西(ようさい)さんにより
日本に喫茶法が伝えられたとされています。
一世紀!
なんと百年も遅くなりました。
しかも栄西さんは、二度目の帰朝なのです。
栄西さんが喫茶法を記した「喫茶養生記」には
喫茶法には、「白湯、只沸水云也。
極熱点服之、銭大匙二三匙、
多少随意、但湯少好、其又随意云云。
〈訳〉
喫茶法には、白湯、沸いた水をいうなり。
極めて熱きを点て之を服す。
銭大の匙にて二・三匙。多少は意に随う。
但し湯は少なきを好しとす。
其れも又意に随う云云
とあります。
ここでも、
「点てる」
という語が記されています。
また、あわせて
「之を服す」という語が「喫茶養生記」には
数多く記されています。
やはり、養生記ですからお茶を「薬」
として捉えています。
ちなみに中国語でも「服」には
薬や毒を飲むという意味がありました。
つまり、
宋に赴いた二人の高僧
成尋さん、栄西さんの記録などから
⇩
日本では、茶は「点てる」となり
薬と同じ「一服、二服」と
広まっていった。
と考えられます。
どのようなお茶・茶道の歴史紹介や解説をみても
日本にお茶・茶道の伝わった歴史はここまでしか
紹介されていません。
理由は
「栄西さんが日本にお茶・喫茶法・茶礼を伝えました。」
と説明する方が時系列で
スッキリまとめられるからだと思います。
一般的にはこれで十分良いのですが、
しかし茶道を学んで行く私達には
どうしても避けられない大切な事があります。
お茶・茶道を学ぶ方にどうしても必要な禅宗の清規を知ろう
百丈懐海さん(ひゃくじょうえかい)
なぜ
お茶・抹茶・茶道は「点てる」というのか?
なぜ
お茶・抹茶・茶道は「一服」というのか?
これだけの事なのに、
どうしても省略できない部分があります。
百丈懐海さん(ひゃくじょうえかい)
749年~814年は、唐時代の禅僧です。
禅宗の清規しんぎとは、禅宗の僧の生活規則です。
この百丈懐海さんが『百丈古清規』を初めて
制定したとされています。
この頃日本では、804年に遣唐船団として
唐へ渡った最澄さん、空海さん、
805年には三十年以上在唐していた、
永忠さんも帰国しました。
815年には永忠さんが、嵯峨天皇に煎茶を献じたと
「日本後記」には記録されています。
つまり、平安初期には団茶法としての
茶が一部の貴族や僧侶の間で飲まれ、
茶園が作られたとする記録もあります。
つまり、栄西さんより300年も早い!
この時期の日本では、
永忠さん、最澄さん、空海さんなどは
寺院としての茶の捉え方、用い方。
貴族の方は、貴族としての茶の捉え方、用い方を
していたと私には見えますので、
宗派は違えど、
寺院では「禅の清規」に基づき「点茶」
かもしれませんし、
誰もがお茶を薬として捉え、
「一服」と呼んでいたかは、
私にはわかりませんでした。
日本のお茶・茶道の成立に影響を与えた『禅苑清規』とは?
また話は宋に戻ります。
宋の時代になると、この『百丈古清規』は
すっかり衰退してしまい、
それを遺憾とした雲門宗の宗賾(そうたく)さんが、
当時叢林古刹などを調べあげ、
現存する最古の清規『禅苑清規』(ぜんおんしんぎ)を
1103年(日本は平安時代)記されました。
栄西さん一度目の入宋は27歳(南宋1167年)、
二度目の入宋は47歳(南宋1187年)で
二度目の入宋学んだ頃の禅林ではすでに
この「禅苑清規」が用いられていたと考えられており、
その中には現代の茶の湯の原型と
考えられている「茶礼」がありました。
「禅苑清規」の中では「点茶」という語が
使われています。
栄西さんの後も、
永平寺を開創した道元さん、
大徳寺を開創した宗峰妙超さんの師の南浦紹明さん
など、宋へ留学した僧が続き
この「禅苑清規」が、
日本の禅宗と茶道・茶の湯の成立に
大きな影響を与えたと考えられています。
まさに「茶禅一味」ですね。
お茶・茶道の源流が見える「四頭茶会」
栄西さんが開山された京都建仁寺では、
毎年4月20日 栄西禅師の降誕会に行われる
「四頭茶会」(よつがしら)茶会が開かれています。
この四頭茶会は清規に基づいた茶礼として
広く知られており、荘厳な雰囲気の中、
僧侶の方々の所作全てがとても参考になるものです。
因みに、お坊さんは全員左足から入室して来ますよ。
茶道をしていない方も、もちろん参加できますので
ぜひオススメです。
また日曜朝の座禅会は、さらに素晴らしいものです。
ぜひ史跡を巡る京都観光だけでなく、
この座禅会にも参加してみて下さい。
そこで、
そこで、
そこでです。
茶道の原型、つまり点前手順の元と言われる、
この「禅苑清規」とこの四頭茶会を、
な、
なんと
照らし合わせて見ました。
しかし、
やはり
残念ながら
それがどの部分に近いのかは、
私には読解できませんでした。
理由は、日本に於ける禅宗も
臨済宗・曹洞宗・黄檗宗と
三派に分かれそれぞれに
「独自の清規」を編み出されているため
残念ながら合致はしないですね。
この辺りは茶道の各流派と似ていますね。
「禅苑清規」-赴茶湯の項目には下記のように
茶湯の儀礼がありました。
さらに内容を良く確認してみると、
他にも数多くの『茶礼』に関する項目が
制定されていますので、宋の時代の禅宗において
如何にお茶が重要であるかを物語っているのかが
分かります。
利休さん以前のお茶・茶道の歴史こそ、
実は茶道の基本だった
なぜお茶・抹茶・茶道は
「点てる」と言うのか?
なぜお茶・抹茶・茶道は
「一服、ニ服」と数えるのか?
自分の初歩的なお茶・茶道への疑問が
こんなん利休さんの前までの、
唐、宋の時代から、そして日本までの
お茶・茶道の歴史を追わなくては
いけなくなるなんて思いもしませんでした。
学者の方なら、
僅かな説明でできるのかもしれませんが、
宗教の中で伝わり派生したルート、
民衆の中に伝わり派生したルートなど、
それぞれのお茶の捉え方、飲み方のルートが生まれ、
唐・宋そして我が日本でも
育まれて来たように私には見えます。
つまり、栄西さんが日本に喫茶法を伝えて
日本のお茶・茶道は普及しました。
のようにお茶・茶道の歴史の真実は
シンプルな一筋では無いという事がわかりました。
いずれにしても
茶を「点てる」「一服」という言葉が
実はこのように千年以上の歴史を
背負ってるなんて、思いもしませんでした。
お茶の変遷を通じて、唐や宋の時代の繁栄した文化、
私は美濃の焼きもの屋なんで、あの唐や宋の
素晴らしい陶磁器ができたそんな時代背景を、
改めて知る事ができました。
喫茶文化が広まったからこそ、洗練された陶磁器が
生まれたと言っても、過言ではありません。
また日本に伝わってきた宗教や文化、
お茶、茶道、陶芸も含めて、
日本独自の発展や創造性は
改めてぐっと感じるものがあります。
現代の日本では、すでに多くの茶樹が豊かに育ち、
毎日皆さんが飲まれている
美味しい煎茶や抹茶、お茶が沢山できて
これだけ私達に身近になったとしても
茶道・茶の湯の世界では
いまだに
「茶を点て、一服」
と言う所に、何か畏敬の思いを感じます。
茶会では良く僧侶の方と同席させていただく事があります。
法嗣(はっす)という、
師から仏の法と印可を継承し、
またその法を後の弟子に伝える人。
という語があるように、
お茶・抹茶を服す時にも、もしかしたら
私達とは違う感覚があるかもしれません。
海路三千里
六日間以上かけての航行
学問を求め、命がけで大海原を渡った
僧侶の方々の勇敢さに頭がさがりますね。
茶道口に座り、
「一服 差し上げます」
挨拶が変わりそうです!
沼尻宗真