「菊」という漢字が「菊」を表していない?
秋に咲く 「菊の花」は、
重陽の節供の主役となる
季節を代表する花ですね。
しかし、茶道を嗜む方でさえも
九月九日の「重陽の節供」は理解し、
お弟子さんに教えていても
「菊の花」本来の意義はまったく知りません。
先生、「重陽の節供」は「菊の節供」とも云われていますね
そうですね。
しかしこの 「菊」という漢字ですが、
実はこの漢字、秋に咲く「菊」を
表しているものではありません。
ええっ本当ですか?
実はこの「菊」という漢字は
本来「カワラナデシコの花類」を
示しています。
カワラナデシコ 開花期 5~8月 春~夏
そうなんです。
現在一般的に使われている
「菊」という漢字ですが
本来は「河原撫子」を表す漢字なのです。
秋に咲く菊にはちゃんとした漢字があります。
こちらです。
本来の秋に咲く「菊」の漢字です。
茶道をしているからこそ「菊」と
という漢字を使い分ける事を
教えてあげるのというのは、
いかがでしょうか?
「菊桐棗」なんかも漢字が変わってきます。
会記や巻き紙、箱書きなど特別な時には
旧字体も調べて使ってみるのもいいですね。
そしてもう一つ大切な事を
菊の紋章と言えば
皇室の菊の紋章の歴史を学ぶ
皇室ですね。
しかしこの皇室の菊の紋章の歴史も
意外に古くはありません。
鎌倉時代に、後鳥羽上皇1180年 – 1239年
平安末~鎌倉初期ことのほか菊を好み、
自らの印として愛用しました。
ここから 「菊の御紋」が始まりました。
その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が
自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、
現在の十六八重表菊が皇室の紋として
定着したそうです。
「十六八重表菊」が公式に皇室の紋とされたのは、
1869年(明治2年)8月25日です。
「菊の御紋」に流れている日本のわび茶・茶の湯・茶道の姿
人もをし 人も恨(うら)めし あぢきなく
世を思ふ故(ゆゑ)に もの思ふ身は
後鳥羽院 99番
ときは、平安の貴族社会の終わりに立ち会い、
鎌倉武家社会へと移る激動の時代。
後鳥羽院は承久3年に北条義時討伐に
失敗(承久の変)し隠岐へ流され
19年過ごした後、崩御しました。
後鳥羽院は貴族社会の復権を強く望み、
自らも歌の名手として
百人一首の撰者・藤原定家らに
新古今和歌集の編纂を命じるなど、
多くの功績を残しました。
この後鳥羽院の歌を百人一首の99番に、
そして最後の100番に院の皇子・順徳院の
ももしきや 古き軒端のしのぶにも
なほあまりある 昔なりけり
日本の1000年以上の歴史を百首の歌に織り込み、
元主君に想いをこめた定家の百人一首の世界は、
後の時代、珠光から、武野紹鴨、
そして利休居士へと「わび茶」茶道として
その姿を変え、
現代の私達へ受け継がれているのです。
「わび」は不足しているのでもなく、
貧しい事でも、寂しい事でもありません。
見わたせば 花も紅葉も なかりけり
浦の苫屋の 秋の夕暮れ
藤原定家
何を感じますか?不足ですか?
貧しさですか?寂しさですか?
つまりこの答えが流派関係無く、
その方の茶道感となるのでは
ないでしょうか。
右、左 点前手続きも大事ですが、
1000年以上前から受け継がれてきた
茶の湯・茶道の系譜を学ぶことも大切です。
沼尻宗真